現在は二人分収まる大きさの仏壇を購入し、生前好きだった食べ物と
牛乳用で愛用していたグラスに毎朝水を入れてお供えしてます。
毎日最低でも一度は猫達の事を思い出します。
自身にとっては22年間片時も離れることなく共に過ごしたかけがえのない家族だから。
あれから自身の環境・心境が変化しました。
ドアや襖を猫が通れるくらい隙間を空ける癖や、
猫達が好きだった場所に視線を向けてしまうことが辛く、
ミューの他界から三か月後に引っ越ししました。
新居に住み始めてからはそういった自身の仕草はなくなりましたが
反面、現在の住まいに猫達の面影が全くないので寂しくなる時があります。
けどあの場所に住んでいたらもっと心を閉ざしていたことでしょう。
それでもふとした時にTVボードやテーブルの下に目線を向けてしまうことがあります。
家具は引っ越し前から変えていないので面影が薄っすらと残っているんだなと感じました。
なので家具は恐らく余程酷くならない限りは買い替えないと思います。
心境の変化について特に感じたのは、"死"という言葉を拒絶するようになったこと。
「自分が死ぬ恐怖」とか「死後の世界」そういう類ではなく、
その言葉を聞くだけで猫達の最期を思い出してしまうからです。
自身はゲームが好きでもっぱらヒマあればゲームをやっています。
ゲーム(特にFPS)を好む方は「死んでしまった!」「〇〇死んだ!」「敵を殺した!」といった
物騒なワードを割と自然に発していますが、自身も数年前までは同様でした。
ですが現在は「倒した or 倒された」と言っています。
これは3年前、先に他界したミーの頃から意識して避けるようになってましたが、
ミューが他界して以降は可能な限り"死"という言葉自体を拒絶するようになりました。
猫達がいない生活が始まって1年。
やはり叶うことならもう一度、たった一度だけでいいから猫達に会いたいです。
二人の鳴き声、身体に触れた手の感触、抱えたときの重さは今でも鮮明に思い出します。
そんな考えが過る度に映像や写真を見て振り返るのですが、
今になって「何でもない日常の風景だったとしても、もっと撮っておけば良かった」と後悔しています。
たとえ見栄えと変化のない日常の写真や映像が何千、何万となっても今ではもう撮ることすら出来ません。
以前猫達を収めた写真・動画をバックアップしていた時にふと思ったことがあります。
それは現在はスマートフォンでいつでも気軽に高画質・高解像度で映像も残せるので、
今から飼い始めた方々を凄く羨ましく思うこと。
生後3週間頃のミーとミュー
ミーとミューが生まれたのは1995年8月。
その頃のカメラはインスタントカメラ(写ルンです)が主流で、
ビデオカメラも自身の家庭にはありませんでした。
(あったとしても当時は当然VHS)
なので最近ペットを飼い始めた方に伝えたいことがあります。
今はHDDの容量も年々大きくなってたり、BD-Rでたくさん保管もできるので
高解像度でたくさん記録してあげて下さい。
何でもない風景だったとしても、当時を"記憶"ではなく"その目"で
振り返れるのは写真と映像だけです。
よく友人や家族から"ペットシック"と言われ、精神的に参っていることから
「新しい猫を飼い始めてみては?」と勧められます。
ですが、自身はどうしてもその考えを受け止めることはできません。
自身にとって小学生の頃は"兄妹"という感覚で、
20歳を過ぎると"子供"という感覚でした。
"ペット"という感覚はなく"兄妹でもあり子供でもある"存在です。
「また新しく動物を飼い始めました」という人はいますが、
否定するわけではないけど自身にはそう割り切れそうにありません。
この先、二度と動物を飼うことはないでしょう。
少々重めな今回の記事になってしまいましたが、
今後猫に関する記事を書くことがあるとすれば誕生日か命日くらいになってしまうし、
それはそれでまた重く悲しい心境になってしまうので
猫に関する記事はこれで最後にします。
遡ること約10年‥‥‥当時はAmebaでブログを記載しており、
その頃からたくさん二人に関する記事を投稿して来ました。
今回の記事の最後に文中でも述べた「写ルンです」という
時代を象徴したカメラで撮影した二人が若かりし頃をいくつかアップ。
当時はたくさん写真を撮りたくても自身は小学生だったから
何度もインスタントカメラと現像料を払うほどの財力はありませんでした。
二人が小さい頃の写真をあまり残せず本当に悔しく思います。
ミーとミュー、改めて22年間のありがとうと愛をここに込めます。